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バルセロナの歴史をまとめてみた

2022.08.21

そもそも

ちょっとややこしいバルセロナの歴史をざっくりまとめてみた。

名前の由来

バルセロナという名前は、第二次ポエニ戦争でローマを苦しめたカルタゴの将軍ハンニバルを輩出した名家バルカ家が、かつてバルセロナ周辺地域を領有していたことに由来するらしい。

ローマ時代

ローマが第二次ポエニ戦争に勝利すると、バルセロナはローマの属州ヒスパニア・キテリオルの一部となり、のちにローマ植民市となった。ローマ植民市時代に現在の旧市街の原型となる街が建設された。

西ゴート王国からフランク王国へ

5世紀に西ゴート王国に征服され、8世紀初頭にイスラーム勢力のウマイヤ朝に征服された。9世紀初頭にカール大帝治世下のフランク王国(カロリング朝)に征服され、フランク王国が8世紀末に設置したスペイン辺境領の一部となった。それによってイスラーム勢力による支配が100年に満たなかったという点が、バレンシアやアンダルシア州諸都市とは決定的に異なる。

カタルーニャ君主国として独立

9世紀末にギフレー1世がバルセロナ伯に任命されると、徐々にフランク王国からの自立を強めていき、10世紀末イスラーム勢力がバルセロナを侵攻した際にフランク王国が救援しなかったことをきっかけに、バルセロナ伯領はカタルーニャ君主国としてフランク王国から独立した。これが現在のカタルーニャの源流となる。

アラゴン連合王国の成立と拡大

12世紀にアラゴン王国とカタルーニャ君主国が連合してアラゴン連合王国が成立し、15世紀前半にかけてサルデーニャ島やシチリア島など地中海地域の領土と勢力を拡大した。

カスティーリャに従属

15世紀後半にアラゴン連合王国とカスティーリャ王国が統合しスペイン王国が成立すると、権力の中心はカスティーリャおよびマドリードへ、貿易の中心は地中海から大西洋へ移行していき、バルセロナは衰退の一途を辿ることになった。17世紀に勃発した収穫人戦争(カタルーニャ反乱)ではフランス軍に占領された挙句スペイン軍に制圧された。18世紀に勃発したスペイン継承戦争では、ブルボン家に敵対するハプスブルク家側についた挙句、1714年9月11日にバルセロナが陥落し、スペイン(ブルボン朝)におけるカタルーニャおよびバルセロナの従属的な地位が決定的になった。バルセロナが陥落した9月11日は現在も「ディアーダ」と呼ばれるカタルーニャ州の祝日となっている(民族意識と中央政府への反抗心強い)。

産業革命と都市拡張計画

18世紀前半にはブドウ栽培などの農業が発展し、18世紀後半には繊維業などの各種産業が発展するとともに新大陸との貿易が解禁され商業が発展した。19世紀前半にはスペインにおける産業革命の中心となり数多くの産業が勃興し発展した。それに伴う人口の増加と過密によって不衛生などの都市問題が深刻化したため、19世紀後半に土木技師イルデフォンソ・セルダが立案した都市拡張計画が実行され、中世の城壁が取り壊されるとともに133.4m四方の正方形を一区画とする碁盤の目のような街並みが実現した。

大都市化とスペイン内戦

20世紀前半には人口100万人を超える大都市に成長したが、インフラや教育などの整備が追いつかず、様々な社会問題が多発していた。またカタルーニャ人の自治や表現の自由の拡大を求めるカタルーニャ民族主義運動が活発化し、中央政府との対立も激化した。1936年にスペイン内戦が勃発すると、バルセロナは共和国政府側についたが、1938年に反乱軍による無差別爆撃を受けるなどして1939年に陥落した。

恐怖のフランコ体制

スペイン内戦終結後フランコ体制下のカタルーニャでは恐怖政治が30年以上続き、カタルーニャ語の使用が禁止されるなど民族主義的な活動が厳しく弾圧された。

民主化と独立運動

1975年にフランコが死去すると、新体制下でスペインの民主化が進められ、1979年にカタルーニャ自治州が発足した。1992年にはスペイン初の夏季オリンピックであるバルセロナオリンピックが開催された。21世紀に入るとカタルーニャ独立の機運が高まり大規模デモや独立を問う住民投票などが行われた。カタルーニャ独立運動は現在も続く。

参考書籍

物語 カタルーニャの歴史

バルセロナ 地中海都市の歴史と文化

情熱でたどるスペイン史

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バルセロナ滞在記2022

#ヨーロッパ#スペイン#まとめ