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パリの歴史をまとめてみた

2022.07.30

そもそも

ちょっとややこしいパリの歴史をざっくりまとめてみた。

パリシイ族とローマ

紀元前3世紀頃からパリ中心部を流れるセーヌ川の中洲(シテ島)にケルト民族の一つパリシイ族(パリの由来)がルテティアと呼ばれる集落を形成していた。紀元前1世紀頃にガリア戦争を経てローマの支配下に置かれ、街がセーヌ川左岸(南岸)まで広がった。その当時建設された円形闘技場や公衆浴場の跡が現在も残っている。ローマの衰退後は街が縮小し、シテ島を範囲とする城塞都市になった。

フランク王国

5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世がパリを征服し、6世紀初頭にパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。クローヴィス1世の死後フランク王国が分裂し、その後カロリング朝フランク王国になると、パリは首都ではなく一地方都市となっていった。

9世紀後半にノルマン人など異民族のフランク王国への襲来が相次ぐと、中央の王よりもパリ伯など辺境防衛を担っていた貴族が軍事力および権力を強めていった。

カペー朝フランス

10世紀後半にカロリング朝が断絶すると、パリ伯ユーグ・カペーが即位し、基本的にはパリが西フランク王国の首都となった。この頃から西フランク王国はフランス王国と呼ばれるようになる。このカペー朝フランス王国時代(987-1328年)に王権強化に伴い首都パリが発展・拡大し、ルーヴル美術館の原型となる要塞や、パリ大学の原型となるノートルダム大聖堂付属神学校など、現在につながる街の原型が築かれた。

ヴァロワ朝フランス

1328年にカペー朝が断絶すると、ヴァロワ家のフィリップ6世が即位した(ヴァロワ朝フランス)が、王位継承権を主張するプランタジネット朝イギリスとの間で1339年に百年戦争が勃発した。百年戦争はジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1453年にシャルル7世の下で終結した。その後しばらくフランス王はロワール渓谷に建設したブロワ城やアンボワーズ城やシャンボール城、パリから南東に離れた郊外に建設したフォンテーヌブロー宮殿などを居所とした。

16世紀後半に宗教改革の影響を受けてキリスト教の旧教徒と新教徒が争うユグノー戦争が勃発した。パリは旧教徒の拠点で、旧教徒が新教徒を虐殺するサン・バルテルミの虐殺もパリで発生した。

ブルボン朝フランス

戦争の最中にアンリ3世が暗殺されると、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン家の新教徒アンリがアンリ4世として即位した(ブルボン朝)。アンリ4世の治世下には、ルーブル宮殿の拡張や、ヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、ポンヌフの建設などが行われた。

次の王ルイ13世(即位時8歳)の治世下には、摂政だった母のマリー・ド・メディシスによってチュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿などが建設された。

絶対王政が全盛期を迎えた太陽王ルイ14世(即位時4歳)は、財務総監コルベールに命じてパリ郊外にヴェルサイユ宮殿を建設し、居所および政治的中枢とした。またパリ市内にもオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)などを建設した。ルイ15世(即位時5歳)の治世下には、サント・ジュヌヴィエーヴ教会(現在のパンテオン)などが建設された。

フランス革命とナポレオン

ルイ16世の治世下に、パリでバスティーユ牢獄の襲撃をきっかけにフランス革命が勃発し、王はヴェルサイユ宮殿からパリに連行され、数年後コンコルド広場にてギロチンによって処刑された。

フランス革命を経て権力を掌握したナポレオン1世は、パリを帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門(いわゆる凱旋門)などの建設を開始した。

第二帝政とパリ改造

復古王政、七月王政、第二共和政を経て第二帝政を開始したナポレオン3世の治世下に、当時のセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによっていわゆる「パリ改造」が行われた。狭くて暗くて不衛生だった路地など、市街地の3分の1以上ものエリアを破壊して、現在見られる凱旋門を中心とした放射線状の街路網や、衛生的な上下水道などを建設し、世界有数の近代都市に生まれ変わった。現在のパリの姿は主にこの「パリ改造」によって実現したものと言える。

普仏戦争と第三共和政

1870年に勃発した普仏戦争で、ナポレオン3世が捕虜となり第二帝政が終わると、ブルジョワ勢力に支持された臨時政府が発足し、第三共和政に移行した。パリがプロイセン軍に包囲されると、臨時政府は降伏したが、パリの労働者らはそれを認めず蜂起し、数ヶ月後には史上初の労働者自治政府パリ・コミューンを発足し抵抗を続けたが、臨時政府側軍の弾圧によって2ヶ月で崩壊した。以後約70年間、この臨時政府または第三共和政政府がフランスを統治した。

18・19世紀の文化

文化的には、フランス革命期の18世紀後半から第三共和政期の19世紀後半にかけて、スタンダール、バルザック、ユーゴーといった文豪や、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌといった印象派画家がパリで活躍した。また、19世紀末から20世紀初頭にかけて、パリ万国博覧会が数回開催された。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年の万博では同時期にパリオリンピックも開催された(イベント欲張りすぎ)。パリが著しく繁栄したこの頃の時代を「ベル・エポック」と呼ぶ。

二度の大戦

第一次世界大戦時には、戦勝国となったフランスがパリで講和会議を主催した。講和会議の最終日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間にて締結されたヴェルサイユ条約によって、フランスは普仏戦争時に失ったアルザス・ロレーヌ地方を奪還した。

第二次世界大戦時には、ナチス・ドイツ軍がフランスに侵攻すると、政府は早々にパリを放棄し無血で占領された。その後ノルマンディー上陸作戦によって進軍した連合国軍およびフランス国内のレジスタンスによってパリは解放された。

20世紀の文化

20世紀のパリでは、バタイユ、サルトル、メルロ=ポンティ、カミュ、フーコー、デリダといった思想家や作家が活躍し、フランス現代思想が隆盛を極めた。岡本太郎も18歳からの10年間(1930-1940年)をパリで過ごした。

参考書籍

フランス革命についての省察

フランス現代思想史

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パリ滞在記2022

#ヨーロッパ#フランス#まとめ